日々の色々-from 2004-

2004年からはてなダイアリーでブログを書いてきました。2018年11月はてなブログに引越し。タイトルも変えました。尚、行政書士は2020年3月末にやめています。

法律は最終手段では?

 不倫でも離婚でも、はたまた相続でもそうですけど、何かしら人と人とがもめた時にこれを最初から法律によって解決しようとすると、却って解決できなくなることがあります。或いは却って不利な結果になってしまうとか。

確かに「法律に則って解決」というのが当事者の合意であれば、それはそれで一つの解決手段ではありますけれども、そうではなくて話し合いがまとまらずに使うというのであれば、それはあくまで最終手段として使うべきではないでしょうか。この言葉を発した時は、ある意味決裂の瞬間だと思います。もう普通の言葉が通じなくなったという意味で。

人と人とが何かを決めようとする時、それは法に反しなければ基本自由に決めてよいことになっています。人と人とは法に頼らなくても話し合いで物事を決められるはずですから、最初から法律や判例に則る必要は無いのです(このあたりが誤解されているところでもありますが)。

例えば、法律では法定相続分というものが定められています。相続人はどういう割合で財産を相続するか、という具体的な数字です。しかしこれは、相続人がこの割合で分けなければならないということではなく、相続人の話し合いで自由に割合を決めてよいことになっています。だから、この法定相続分の数字に頼る必要はありません。ある意味、どうしても話し合いがつかない時に使う数字だとも言えます。

でも今度はこの数字に頼ろうとすると、数字では割り切れないことが出てきます。誰かがずっと被相続人の面倒をみていたのにそれを考慮せずに同等に分けるというのは、普通に考えてもおかしなことですから、そこで話し合いが必要になるわけです。そして、ここできちんと話し合いができて、誰かの寄与について相続人が皆納得してそれを勘案した合意ができれば、話し合いの舞台を調停やひいては裁判にまでもって行かずに済むのです。

お金が絡む相続の話し合いにおいては、誰かの欲の皮が突っ張っていると話はまとまりません。つまり人間性がよくわかる場でもあります。


また離婚の財産分与ですと、これについて法律の条文で明確な定めがあるわけではありません。これも相続と同じで基本、どう分けてもよいのです。片方が全部貰っても構いませんし、半々に分けても収入に応じて分けてもそれはその夫婦の自由です。でも離婚しようというくらいですから、あまり込み入った話し合いは難しい状況だとは思います。特に双方とも「もっとたくさん欲しい」或いは「相手にそんなにあげたくない」と思っていると、話がまとまりません。そこで「法律で解決」ということになるかと思いますが、当然ながら判例からみて不利な人は、法律で解決しない方がよいわけです。よってそういう場合は交渉が大事になります。

何しろ、舞台を裁判所に移すと、自分でやるなら手間がかかります。勉強も必要でしょう。自分ではできないとか、より有利に進めようと考えれば弁護士に多額の費用をかけなければなりません。そして、時間とお金ばかりがかかっても必ず納得のいく終わり方になる保障はありません。精神的にも非常に負担が大きそうです。そう、だから自分たちで短期に話し合いをまとめた方がそういう意味ではお得になります。こういうことを相手に話すのも交渉の中では使えるアイテムの一つです。あとの交渉は相手の性格にもよります。切々と窮状を訴えることが効果がある時もありますでしょうし、強気で主張することが効果がある場合もあると思います。そしてまたこういう話し合いは疲れることでもあります。自分も疲れますけれども相手も疲れます。粘り負けしないことが大事というわけです。


また不倫の場合ですと、不倫カップルを強制的に別れさせる手段を法律は持ちません。不倫をされている妻が離婚せずにできる方法は、今のところ法的には相手の女性に慰謝料を請求することですが、それで必ずしも解決するわけではありません。こういう時も大事なことは交渉だったりします。慰謝料の請求で不倫が終わる時ももちろんありますが、相手と話をすることで不倫が終わることもあるのです。しかし、不倫は終わりました、でも相手は恨みが残りました。そして後日不幸なことが起こりました、となっても困ります。法律が法律婚の夫婦関係を保護しているから自分は強気の立場で、という姿勢は正しいのかどうなのか、ということも考える必要があると思います。

人には感情があります。幾ら法律でこうだ、と決まっていても感情を覆せるとは限りません。幾ら刑罰を決めても犯罪が起きてしまうことを考えればわかります。その一方で、上手な話が相手の琴線に触れ、うまく解決できることもあります。だから話し合いによる、法律に頼らない解決というものをまず考えるべきなのではないかと思うのです。